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髪の毛が後退しているのではない、
私が前進しているのだ。

by ソフトバンク社長
孫正義

住職的

月の標語」解説

 今月は実業家でソフトバンク社長の孫正義さんの言葉です。これはインターネット上で孫さんに寄せられた、「最近髪の毛が後退してきていませんか?」という問いかけに対する返事です。私(住職)がこれまで出遇ってきた言葉の中でも、特に感銘を受けた言葉のひとつです。すごいですよね、この発想の転換。  私たちはそれぞれに自分の都合による「枠組み」をもって生きています。その枠組みとは、「自分は周りからこのように見られているだろうから、こうでなければならない」とか、「自分は社会的に○○だから、こうあるべきだ」というようなものです。しかし仏教では、無自覚にもっているそういった枠組みを疑うことが大切であるとします。仏教で自分の枠組みを点検するのは、自分の都合によって構築されている「こうあるべきだ」「こうでなければならない」という執着心こそが、悩みや苦しみを生み出す原因になっていると説くからです。そのことについてお釈迦様は、 人ははからいから、すべてのものに執着する。富に執着し、財に執着し、名に執着し、命に執着する。有無、善悪、正邪、すべてのものにとらわれて迷いを重ね苦しみと悩みとを招く。(「マッジマ・ニカーヤ」Ⅲ) と説かれています。ここには「苦しみ」を生み出すのは「執着」であり、その「執着」を生み出すのは「はからい(自分の都合による枠組み)」であると述べられています。そしてその「枠組み」が強固であるほど、そうあり続けることが苦しくなってきます。例えば自分は周りから明るい性格だと思われているから、どんなツラいことがあっても元気に振る舞わなくちゃいけないと考えるとしんどくないですか?
 このように、自分が無意識にもっている「こうでなくてはならない」という強固な枠組みは、かえって自分を苦しめることになります。そうならないように、なるべく自分の枠組みをはずしていくような生活を心がけることによって、新たな思考回路が開かれるのではないでしょうか。今月の孫正義さんの言葉を通して、「こだわらない」という生き方に、このような発想の転換がおこなわれたのではないかと、住職的に感じた次第です。 合掌

いいか、絶対に押すなよ!by上島竜兵ダチョウ倶楽部

住職的

6月の標語」解説

  今月は5月11日に亡くなられたダチョウ倶楽部・上島竜兵さんの言葉を、追悼の思いも込めて掲げさせていただきました。
上島さんといえば、リアクション芸人として知られています。
特に熱湯風呂に入る際、「絶対に押すなよ 」と前フリをして、メンバーの肥後さんと寺門さんに押されて熱々のお風呂に落ちるというお決まりの芸に、 分かっていてもいつも爆笑させていただきました。 上島さんはこの熱湯風呂の芸について、
目の前に熱湯風呂があったら入る、オレはそれでいいんだ!と思えるようになりました。お笑い芸人はみんな、そうやって自分の笑いを探していくものなんだと思います。 と仰っています。 さらに上島さんは「リアクション芸人がトーク上手くなったら終わりだよ」と言われているように、得意分野は人それぞれで、ご自身は熱湯風呂をやり続けられました。 そしてこの芸をもはや伝統芸能の域にまで高められたといっても過言ではありません。 私(住職)は上島さんの姿を通して、ある有名な僧侶の言葉を思い出しました。 それは天台宗の祖・伝教大師最澄師です。最澄師には、
一隅いちぐうを照らす、これすなわち国宝なり。 (『 山家学生式さんげがくしょうしき』) という言葉があります。「一隅」とは、片すみという意味で、「それぞれの持ち場」と言い換えてもいいでしょう。つまりこの言葉は、「それぞれの持ち場で取り組む人は尊い人である」という意味です。一人ひとりが自分のいる場所で一隅を照らしていくことによって、世の中は動いています。 私たちはつい派手なこと、目立つことに目を奪われてしまいます。 しかし、誰の目にも止まらないようなどこかの片すみで、コツコツ取り組むことも同じように尊いことなのです。
大きく世界を変えようとするのではなく、まず目の前のこと、いま自分にできることを一生懸命やる。 そうやって一人ひとりが灯す小さな光が、やがて大きな光となる。忘れがちですが、そんな当たり前のことを思い出させてくれる言葉です。 そして今日もまた、上島さんの動画をみて笑っています。 合掌

笑えてるやつには、笑えるという幸せを知ってほしいby江頭2:50(お笑い芸人)

住職的

月の標語」解説

 今月はお笑い芸人の江頭2:50さんの言葉です。江頭さんは上半身裸で下は黒タイツというインパクトのある格好をされていますが、内面はとても人情味のある方です。(東日本大震災の支援話は感動的です)
さて、ここで質問ですが「当たり前」の反対語は何でしょう?・・・
正解は「有難いありがたい」です。「有難い」とは「有ることかたし」ということなので、本来ないはずのことが目の前に有り得ているということです。だから人の親切に対して「有難うございます」と、お礼を言うのでしょう。「有難う」は英語で「Thank you」と訳されますが、言葉そのものの意味は全く異なります。「Thank you」は直訳すると、「あなたに感謝します」ですが、「有難う」は「有ること難し」ですので 、無いはずのものがいま有り得ているという事実を表しています。
ケニアにワンガリ・マータイ氏(1940〜2011)という女性大臣がおられました。 社会活動家でノーベル平和賞まで取られた方です。マータイ氏が来日された時に、日本の「もったいない」という考え方に触れて大変感銘を受け、「MOTTAINAI運動」という活動を展開されました。「もったいない」という日本語はどうしても英語に翻訳できないということで、そのまま「MOTTAINAI運動」いう形で広げていかれたのです 。「当たり前」という見方にとどまっている人には 、まず「おかげさま」「もったいない」という言葉は出てきません。いま目の前の事実に対して感謝をさせていただくことによって、そのような心が恵まれていくのではないかと思うのです。
以前、「幸せになったから感謝するのではなく、感謝する人が幸せである」という言葉を目にしましたが、確かにそうだなと頷かされました。 私たちは「ない」ものに目を向けがちで、「ある」ものにはあまり目を向けようとしません。そうなると不平不満が多くなります。しかし、「ある」ものに目を向けると、少し見方が変わります。
江頭さんの「笑えてるやつには、笑えるという幸せを知ってほしい」という言葉を通して、「幸せ」とはこれから掴んでいくものではなく、 気づいていくものであるという視点を大切にしたいと思います。 合掌

Stay hungry, Stay foolish(ハングリーであれ、愚か者であれ) by スティーブ・ジョブズ(1955-2011)

住職的

月の標語」解説

 「世界を変えた3つのリンゴ」という表現があります。一つ目は旧約聖書、アダムとイブの話に出てくるエデンの園のリンゴ。二つ目は万有引力の法則のヒントとなり、その後の物理科学に影響を与えたニュートンのリンゴ。そして三つ目は「iPhone」や「iPad」などを世に送り出して、私たちの生活に変革をもたらしたアップル社。今月はそのアップル社の創業者、スティーブ・ジョブズ(享年56)の言葉です。  この言葉は病と闘いながらも、米スタンフォード大学の卒業式で行われたスピーチの最後に語られました。ジョブズ自らの生い立ちや、闘病生活を織り交ぜながら人生観・死生観を語った、今でも語り継がれる名スピーチです。Youtubeでも見ることができるのでご覧ください。
 実はジョブズは若い頃から仏教の教えに共感し、人生観に大きな影響を受けています。ここでジョブズは「Stay foolish(愚か者であれ)」と語っていますが、おそらくこの言葉も仏教と無関係ではないように思われます。一般的に「愚か者」と聞くとネガティブなイメージがあるかもしれませんが、仏教では決してそうではありません。例えば曹洞宗の洞山良价とうざんりょうかい禅師に、「の如く、の如く、よく相続するを主中の主と名づく」という言葉があります。これは愚直(愚)にひとつのことを地道(魯)に続けることの大切さを説いています。そして浄土真宗の宗祖・親鸞聖人も生涯「愚か者」であり続けたお方でした。
 聖人は、ご自身を「愚禿ぐとくしゃく親鸞しんらん」と名のり、愚か者を愚か者のままでお救いくださる阿弥陀如来の大悲を仰ぎながら、お念仏の中に生きていかれました。
 「賢く」なってしまうと、他人のアドバイスをなかなか聞き入れることができなくなります。むしろ自分の「愚かさ」に気づかせていただく時、謙虚な生き方が恵まれるのではないでしょうか。だからこそジョブズが「ハングリーであれ、愚か者であれ」と述べたのは、目標に向かって積極的に取り組むことの大切さ、同時にひたむきさと謙虚さを忘れてはならない、というメッセージだと私(住職)は受け止めています。
 4月に入り、新年度を迎えました。「偉そうにしても偉くはない、バカにされてもバカではない」という意識を大切に過ごしていきたいと思います。 合掌

非暴力は人間に与えられた最大の武器であり 人間が発明した最強の武器よりも強い力をもつ by ガンジー

住職的

月の標語」解説

  現在のウクライナ情勢に心を痛めています。自分の野望を実現させるために、なぜ罪のない人々の命が奪われなければならないのでしょうか。 戦争ほど愚かなものはありません。一刻も早く、尊い命が護られるように念願するばかりです。 今月は「インド独立の父」とよばれる、マハートマー・ガンジー(1869〜1948)の言葉です。ガンジーは「非暴力」という理念のもとで活動を続けました。 仏教の開祖であるブッダ(お釈迦様)は非暴力を説かれ、仏教徒にとって生きる上で大切な指針となっています。 ブッダの言葉を伝える『法句経ほっくきょう』には次のように説かれています。
すべての者は暴力におびえ、すべての者は死をおそれる。己が身をひきくらべて、殺してはならぬ、殺さしめてはならぬ。(129 偈)
すべての者は暴力におびえる。すべての(生きもの)にとって生命は愛しい。己が身にひきくらべて、殺してはならぬ。殺さしめてはならぬ。(130 偈)
「己が身にひきくらべて」というのは、暴力によって命を奪われる側に自分の身を置いてみなさいということです。 命を奪われる恐怖や苦しみを、自分自身の恐怖や苦しみとして感じ受けとめるなら、奪う側に立つことはありえません。 国家や集団が、戦争やテロのような暴力を行使するとき、必ず何らかの「正義」の名のもとに自らの行為を正当化しますが、そこには暴力を受けるひとつひとつの命に「己が身をひきくらべる」思いが欠けています。命を奪われる苦しみや痛みを思い、共感することが、「非暴力」という生き方を貫くための大切な視点になります。
今回のウクライナだけでなく、世界各地で戦争やテロが繰り返され、多くの尊い命が失われています。 その悲しい現実に直面して、私たちがどのように対処すべきかを考えるとき、「苦しみ痛む生命の側に自分の身を置いて考え、行動しなさい」というブッダの言葉は、とても大事な意味をもっているように思われます。 合掌 ※大谷大学 HP「きょうのことば」参照

配られたカードで勝負するのさ それがどんな意味であれ by スヌーピー

住職的

月の標語」解説

 今月はお馴染み、スヌーピーの言葉です。スヌーピーはアメリカの漫画家、チャールズ・M・シュルツ(1947~1999)の漫画「ピーナッツ」に登場する犬のキャラクターです。今月の言葉はルーシーという、少しイジワルな女の子との会話の中で出てきます。
ルーシー「時々、わたしはどうしてあなたが犬なんかでいられるのか不思議に思うわ。」
スヌーピー「配られたカードで勝負するしかないのさ…それがどういう意味であれ。」

 このスヌーピーの言葉は「もっと○○だったら・・・」とか、「どうして自分は○○じゃなかったんだろう…」なんて気分になった時に思い出したい言葉です。自分の不遇や、現状への不満をいくら嘆いても何も始まりません。それどころかネガティブ思考にとらわれて、より惨めな気持ちになってしまいます。
 ところで、解剖学者である養老孟司氏の『超バカの壁』という本に興味深いことが書かれていました。働かない若者が増えている現代、彼らが働かない理由として一番多いのが、「自分に合った仕事を探しているから」なんだそうです。しかし、養老氏はこの理由に疑問を呈しています。なぜなら、そもそも仕事とは、「社会に空いた穴」であり、穴をそのまま放っておくとみんなが転んで困るから、ともかく目の前の穴を埋めてみる。それが仕事であって、初めから「自分に合った穴」が存在するのではなく、むしろ「社会に空いた穴」に自分が入り、そこを埋めていく中で、周りの環境や出遇いの中で考えが変わり、自身が育っていくというのです。まさに、「それがどんな意味であれ、配られたカードで勝負する」ということを通して、現在の自分に「意味」が与えられていくのでありましょう。
 「私」とは最初から確固たるものとして存在しているわけではなく、様々な関係性によって形成されていきます。この関係性のことを仏教では「縁起」と言います。愚痴や不満ではなく、自身を育ててくれたご縁とご恩に感謝させていただく人生を歩みたいものです。 合掌

人にほめられたとしても、それはほめた人の功徳であって、ほめられた人の功徳ではない。 by 深川倫雄(本願寺派 勧学

住職的

月の標語」解説

 今月は浄土真宗本願寺派の勧学・深川倫雄和上(1924~2012)のお言葉です。 本願寺派では、学徳豊かな僧侶のことを「勧学」と申し上げます。このお言葉には前後にも文章がありまして、以下にあげさせていただきます。 「こうしたら人が悪う言うまいか、こうしたら良く思われまいか」というのが人と人との交際。その交際はやめられはしませんが、それを軽くして、「こうしたら仏さまがお喜びなさるか、こうしたら仏さまがお悲しみか」というやり方が仏法、お念仏であります。
 人にほめられとしても、それはほめた人の功徳であって、ほめられた人の功徳ではありませんからね。反対に人の悪口を言う人がおったら、その人の心に傷がついておるのです。人をほめる人がおったら、ほめる人の心が豊かになってゆく、人を悪く言えば言う人の心が貧しくなってゆくんだ。
 仏法に志すということは、なるべく人と人との交際に気を配る心を軽くして、私と仏さまとの交際を重くするということであります。
(深川倫雄『仏力を談ず』永田文昌堂・刊)

 仏さまの教えを拠り所にするということは、仏さまの価値観を大切にしながら生きていくということです。人を貶せば、仏さまが悲しまれます。自己中心的な生き方しかできない自分ではありますので、時には人を傷つけてしまうこともあるでしょうが、少しでも仏さまの視点を気にかけながら生活していきたいものです。
 近年、社会問題となっているのは、インターネット上における他者への誹謗中傷です。インターネットは、誰もが気軽に自分の意見や思いを投稿できますが、その投稿内容によっては人を傷つけてしまいます。言葉は使い方によって人を傷つけたり、喜ばせたりすることができます。人の悪口を言うのは簡単でも、人をほめることは、案外難しいものです。(実際、陰で人をほめるより、悪口を言うほうが多いのではないでしょうか?)ですから、人にほめられたとしても自分の手柄にするのではなく、ほめてくださったお方のお心が豊かなのだと、思いを馳せてみてください。そのほうが自分の心も豊かになるような気がします。
 いつも掲示板を見てくださり、有難うございます。今年が皆さまにとって尊い一年でありますように念じております。 合掌

人は転ぶと坂のせい
坂がないと石のせい
石がないとクツのせい
人はなかなか自分のせいにはしない

by 森繁 久彌

住職的

12月の標語」解説

 12月は往年の名優・森繁久彌さんのお言葉です。
 森繁さんは小学校5年まで西宮市立鳴尾小学校に在籍されていたこともあり(途中大阪へ転校)、鳴尾小学校出身の住職(わたし)は勝手に親近感を抱いていました(笑)  さて、仏教には「縁起」という考え方があります。一般には「縁起が良い、縁起が悪い」といった、吉凶の兆しを表す言葉として用いられていますが、元々はそのような意味ではありません。「縁起」とは「因縁生起」を省略した言葉で、あらゆるものが生じているという結果(生起)の背景には、必ずそれを生んだ原因(因)と条件(縁)とがあるということが本来の意味です。
 「ものごとの結果には必ず原因がある」、この考え方はある意味当然だと思われるかもしれませんが、私たちは果たしてその原因をしっかりと見極めることが出来ているでしょうか。案外、自分の都合のいいように原因を捉えがちです。原因を見あやまれば、目の前で起こっている現象(結果)を正しく見たことにはなりません。
 ここでひとつの例を出してみましょう。誰かが意図せずにコップを割ったとします。その場合、「○○さんがコップを割った」と言います。しかし自分が割ったときは、とっさに「コップが割れた」と、あたかもコップが勝手に割れたかのように言わないでしょうか。でもコップは勝手に割れません。落ちるはずがないコップが私の手から滑り落ちて、本来割れるはずのないコップが勝手に割れてしまった・・・。そうではなく、コップを割った原因は「わたし」です。このように、自分にとって不都合なことが起こると、自分ではなく他に原因を求めようとします。他人が割ったときは「コップを割った」。自分が割ったときは「コップが割れた」。これ、もう無意識です。人は潜在的に「自分は間違っていない」と、自分を守ろうとする防衛本能がはたらくようです。そして「自分は正しい、相手が間違っている」という歪んだ因果関係の捉え方は、時として争いの原因になります。そのような姿勢ではなく、相手を認め、尊重してこそ自分も大切にされるのではないでしょうか。 合掌

やまない雨はないとかじゃなくて今降ってるこの雨がもう耐えられないっつってんのbyアニメ・イラスト作家 谷口崇

住職的

11月の標語」解説

 今月の掲示板はアニメ・イラスト作家である谷口崇さんの、とても痛快な言葉です。この言葉を目にした時、深く共感しました。
 「やまない雨はない」というフレーズはよく聞いたり、目にします。言葉の意味としては、「今つらいことがあったとしても、必ず乗り越えることができる」といったところです(よく似たフレーズに「明けない夜はない」もあります)。  まことに殊勝な言葉ではありますが、私(住職)はこれを言われて嬉しかったり、救われたことはありません。それは「やまない雨はない」の続きに、「だから頑張れ」という言葉が隠れているからです。確かに「頑張れ」という言葉は相手を鼓舞したり、勇気づけたりする際には有効な言葉です。しかし、語りかける状況によっては厳しい言葉でもあります。本当につらくて悲しいときには「頑張れ」という鼓舞ではなく、「つらいね、悲しいね」と共感する言葉の方が温かく感じます。「頑張れ」といわれても、「ずっと頑張ってるのに、これ以上は…」と塞ぎこんでしまいたくなります。
 医師で、浄土真宗の念仏者でもある駒沢勝先生は、「同治」と「対治」という考え方を紹介されています。「対治」とは、例えば発熱の時に氷で冷やして熱を下げること。「同治」とは逆に温めて汗をかかせ熱を下げること。また、悲しんでいる人に「悲しんでも仕方がない、元気を出せ」と励ますのは「対治」。一緒に涙を流し、共に悲しんで人の心の重荷を降ろさせるのが「同治」、といった具合です。そして医師として、治療にあたってどちらがよい効果をもたらすかといえば「同治」なのだそうです。「対治」が現状の否定であるのに対して、「同治」は現状をあるがままに受容するからだ、と述べておられます。
 阿弥陀如来さまは「同治」の仏さまです。私に一切の条件をつけず、「どんなことがあっても、そのままのあなたを救うよ」と温かく喚びかけられています。そしてその呼びかけが「南無阿弥陀仏」なのです。そのままの私を認めてくれる存在に遇うことによって、苦しみの中でも生き抜くことができるのではないでしょうか。 合掌

明日死ぬとしたら、今日はどのように過ごしますか?
と問われた時、
「いつものように過ごしたい」と言えるような生き方をしていたい。

住職的

10月の標語」解説

 例えば、もしあなたが明日死ぬとしたら、今日はどのように過ごしますか?おそらく大抵の約束はキャンセルするのではないでしょうか。あるいは悩み事があったとしても、そんなことはすっ飛んでしまうでしょう。自らの「死」が目前になった時、大事な約束や悩み事は、もはやどうでもよくなる。人生においてそれらは案外大したものではありません。  究極論ではありますが、仏教が目指すのは「その時が来てもいつものように過ごす」ということです。その時に、いつもと同じように過ごせないということは、普段は本来の姿ではないということになります。しかし、普段からそのような心で生きるというのは並大抵のことではありません(かくいう住職も、とても言えません…)。とはいえ、「いま」を生き切るという事は大切なことです。
 仏教の時間論は「いま、この一瞬しか存在しない」と説きます。この一瞬を原因として次の一瞬が生成されます。この一瞬にどのような思考・言動・行為を行うかが次の一瞬を決定するのです。そして次の一瞬の思考・言動・行為がまた次の一瞬を…と連鎖していきます。ですので、仏教では「運命」や「宿命」といった、時間を実有的にとらえるようなことは基本的にしません。
 今の息は前の息にあらず。前の息は今の息にあらざるなり。
 という言葉があります。この1呼吸は、後にも先にも一生でただ1回のものであるという意味です。すべては刻一刻と変化し続けるので、その瞬間その瞬間は2度と戻ってくることはない、1回だけのものなのです。そして時もこの一瞬しかあり得ません。
 ぜひ朝の駅や夕暮れの街並みを眺めながら、刻一刻と変化し続ける世界を感じてください。あるいは少し時間の余裕があれば、誰にも知られることなく道端に咲いたお花をじっと観察してみてください。「すべては関わり合いながら変化し続けている」ことが実感できれば、今がどれほど豊かであり、どれほど大切であるのかが知らされます。 合掌

何を語るかが知性 何を語らないかが品性byお笑い芸人・スピードワゴン小沢一敬

住職的

「9月の標語」解説

 今月はお笑い芸人「スピードワゴン」の小沢さんの言葉を掲示板にさせていただきました。特に後半の「何を語らないかが品性」について、思うところを書かせていただきます。
 相手に自分の思いを伝える際に「語り」が大切であることは言うまでもありません(手話などの視覚的コミュニケーション手段も含めて)。 一方で、室町時代の能楽師・世阿弥の『風姿花伝』に、  秘すれば花なり 秘せずは花なるべからず

(秘めるからこそ花になる 秘めねば花の価値は失せてしまう)
 という言葉があります。
 これは表現したいこと、言いたいことを象徴する部分を表現し、あとは受け止める側が奥に秘められた大事な部分を想像してほしい、という「語らない」部分に焦点をあてた言葉といえるでしょう。このように、あえて「語らない」ということにも重要な意味があります。例えばカウンセリングの際、相手の話に自分の評価を入れて否定することなく、とにかく思いを聴いて受け入れる「傾聴(けいちょう)」が大切であるとされます。確かに自分の思いが否定されず、ただ聴いてもらえるだけで「居場所」が与えられるような気がします。
 仏教を開かれたお釈迦様は、相手の悩みに応じて説法の内容を変えられたほどの「語り」の名手です。しかし、そのようなお釈迦様でも時に「語らない」ことを大事にされた場面がありました。それは韋提希(イダイケ)という女性の、深い悩みを聴いている時でした。この女性はハタから見れば自分勝手な都合によって苦悩しているのですが、韋提希はそのようなことにも気づかず、自分のことを棚にあげて、こともあろうか自分が苦しんでいるのはお釈迦様のせいであると主張するのです。そこでお釈迦様がとった行動は「沈黙」でした。その沈黙が韋提希をして自分自身に問題はなかったのかと自問自答させ、最終的に韋提希の方から「どうかこのような私でも救われていく教えをお説きください」と申し出ます。そしてその申し出に応じてお釈迦様は、どんな愚かな者であっても救われるお念仏の教えを説かれるのでした。この時にお釈迦様がとった行動は「沈黙の説法」と言われています。
 「聴き上手は話し上手」と言われますが、私(住職)も立場上、色んな方々からお話を聴かせていただきますので話すばかりでなく、「聴く」ことも大切にしたいと思います。 合掌

明日からやろうと40回言うと、夏休みは終わります

住職的

「8月の標語」解説

 今年もコロナ禍の夏といえども、子どもにとって夏休みはやはり特別なものです。夏休みと切り離せないものが宿題。遊びに夢中になり、つい「明日やろう」と後回しにして、8月の終わりにため込んだ宿題に追われる…。わたし(住職)も例外ではなく、この時期になるとそんな苦い記憶が思い出されます。  では「夏休み」を「人生」に置き換えてみてはどうでしょうか。この命が終えたらどうなるのかという「いのちの問題」(これを「後生の一大事」と言います)を聞かせていただくのが仏教です。ある人は言うかもしれません。「人は死んだらおしまい」と。しかし、そんな死生観はすこし寂しくないでしょうか。それは私自身、自分がいのちの岐路に立たされたとき、あるいは大切な方が亡くなったとき、「死」をそんな簡単に割り切ることができないからです。
 浄土真宗では阿弥陀如来という仏さまをご本尊としています。阿弥陀さまは「南無(まかせよ)阿弥陀仏(われに)」という喚び声となって、「あなたが命の縁が尽きたとき、必ずお浄土へと生まれさせて仏にさせましょう」と、わたしのいのちに喚びかけてくださっています。「南無阿弥陀仏」のおいわれを聞かせていただくとき、自分も大切な方も阿弥陀様に願われ、そしてお浄土というさとりの世界へ生まれさせていただけるいのちであったことに気づかされます。
 以前、ある方に「お寺で一緒に仏さまのお話を聞きませんか?」とお誘いしたところ、「私はまだ若いから、もう少し年を取ったらお参りさせていただきます」と言われました。しかし、果たして私たちには「明日」という日は保証されているのでしょうか。「そのうちお寺参りしよう」では、気づいたときはもう人生が終わってしまいます。無常の世に生かされているからこそ、明日ではなく「いま」、いのちの大問題を聞かせていただかなければなりません。仏教とは他人のことではなく、自分の問題だからです。そのことを本願寺第8代蓮如上人(1415-1499)は、
 「仏法には明日と申す事、あるまじく候う」
と仰いました。亡き方々をご縁として、私にかけられた仏さまの願いに耳を傾けてみませんか?信行寺では毎月仏さまのお話を聞くことができます。お寺とは自分の願いごとを仏さまに聞いてもらう場所ではなく、仏さまの願いを、私が聞かせていただく聞法の場所なのです。  合掌

相手の不幸ではなく お互いの幸福に よって生きたい

喜劇王チャップリン

住職的

「7月の標語」解説

 今月は喜劇王とよばれるチャップリン(1889~1977)の言葉です。皆さんは他人の成功を心から喜ぶことができるでしょうか。仏教には「隨喜(ずいき)」という言葉があります。近頃ではほとんど使われなくなりましたが、以前は「隨喜の涙を流す」など、目にしたり耳にしたりしたものです。 「随喜」はもともと仏陀や菩薩の善なる行為を褒めたたえるということですが、そこから他者の喜びごとを心から喜ぶという意味で使われます。例えば職場の同僚が好成績を出したとき、「ああ、本当におめでとう!」と言うことですね。他人のうれしいこと、喜んでいることを自分自身が心から喜ぶ。実はこれがなかなかできないのです。人間がもつ煩悩のひとつに「ねたみ」というものがあります。
 いわゆる「嫉妬」です。口では「おめでとう!」と言っても、心の中では「何であんただけ…」というような気持ちが沸いたり、逆に他人が失敗すると安心したりする自分がいたりしないでしょうか。
 インドと中国の間にブータンという小さな国がありますが、ここはチベット仏教を国教とする仏教国す。そのため人々の信仰は熱く、全て仏教の教えに従って社会が動いています。ブータンは「幸せ国」とよばれ、国民のほとんどが「いまが幸せ」と感じているそうです(国別の幸福度調査があるしく、1位のブータンに対して日本は80位以下だとか…)。なぜブータンの人は幸せを感じるのかその理由を私(住職)の友人がブータンへ旅行した際に、現地の人に聞いたそうです。すると返ってたのが「家族や友人が幸せそうだから」という答えだったというのです。すごいですね。ブータンのたちにとって「幸せ」の中心は自分ではなく、「家族や友人」なのです。私はこの話を聞いたときに分が恥ずかしくなりました。
 日常生活の中で周りに喜んでいる人がいるとしたならば、そのことを「本当によかったね!」とたった一言かけるだけでお互いが気持ちよくなれます。「個人主義」がますます加速し、大切なことを失いつつある現代ですが、身近なことから少しずつ実践していければいいなと思います。 合掌

美しい景色を探すな。 景色の中に美しいものを見つけるのだ。

ゴッホ(画家)

住職的

「6月の標語」解説

 今月の掲示板は世界的に著名な画家、ゴッホ(1853~1890)の言葉です。今でこそ世界中のひとに知られていますが、生前は無名の画家で、生涯に売ることができた絵はわずか1枚のみだったそうです。
 さて、仏教には「少欲知足(しょうよくちそく)」という言葉があります。「欲を少なくして、満足することを知る」という意味です。これまでの日本では物質的に豊かな生活の中にこそ幸せがある、と信じられて邁進してきました。  それゆえ現代は物が豊かになり、科学技術も発達したことで、私たちの生活はより便利で快適なものとなりました。しかし一方で、現代ほど人の心が荒廃した時代もありません。
 それは物質的な豊かさが人の心を豊かにするわけではないことを意味します。むしろその逆で、人間の欲望は充足すればまた新たな欲望を生み出し、無限にふくらんでいきます。お釈迦さまはそのような人間がもつ欲望こそが、あらゆる苦しみ・悩みを生み出す原因であると説かれました。
 私たちは「ない」ものに目を向けがちで、「ある」ものにはあまり目を向けようとしません。そうなると、どうしても不平不満が多くなります。しかし「ある」ものに目を向けたならば、私のいのちを支えてくださっている様々な存在が見えてきます。そのような気づきの中で「ありがたい」「もったいない」「おかげさま」という感謝の心が与えられていくのでしょう。
 「幸せは与えられるものではなくて、日々の生活の中に気が付いていくものである」、これはかつてある方から教えていただいた言葉ですが、今月のゴッホの言葉も同じようなことを意味しているように思えます。ものごとの見方をすこし変えるだけで、見える景色も変わってきます。「少欲知足」を実践していくことはなかなか難しいですが、いきなり変わるということではなく、少しずつ「お陰さま」に気づかせていただくことが大切です。「ない」ものを嘆くのではなくて、今「ある」ものに感謝をさせていただく。幸せ(美しい景色)とは、そういった日々の暮らしの中にあるのではないでしょうか。 合掌

君たちがいて僕がいるbyチャーリー浜・吉本新喜劇

住職的

「5月の標語」解説

先月、吉本新喜劇でお茶の間を沸かせてくれた、チャーリー浜さんがご往生されました。謹んで哀悼の意を表します。
チャーリー浜さんの代表的なギャグは「じゃ、あ~りませんか」ですが、もう1つ「君たちがいて僕がいる」というフレーズもあります。それを今月の掲示板に書かせていただきました。実はこのフレーズ、「縁起」という仏教の基本的な教えに通じる大切な言葉なのです。  わかりやすくチューリップの花で例えてみましょう。まず、球根が原因だとすると、花は結果です。チューリップの花は球根から咲きますが、球根だけでは花は咲かず、温度・土質・水分・肥料・日光・人間の細心の手入れなど、さまざまな条件(縁)が球根にはたらいて花は咲くのです。
 このように、あらゆるものが生じているという結果の背景には、必ずそれを生んだ原因(因)と条件(縁)とがあり、それを「因縁生起(いんねんしょうき)」といいます。そしてこの言葉を省略して「縁起」というのです。現実には、因と縁と果とが複雑に関係しあい影響しあって、持ちつ持たれつの状態をつくっています。
 『阿含経(あごんきょう)』というお経には、
  此れあれば彼あり、此れ生ずるが故に彼生ず、此れなければ彼なし、此れ滅するが故に彼滅す。
とあります。これは、全てのものはお互いに深く関わり合いながら成立しており、完全に独立して存在しているものは無いことを意味しています。人間同士の関係も、すべて「縁」によってつながっています。まさに「君たちがいて僕がいる」という言葉に通じているのです。
 日常、よく「縁起が良い・悪い」という言葉を聞きます。吉凶の兆しという意味なのでしょうが、本来は他の多くのモノの力・恵み・お陰を受けて、私たちは生かされているという、仏教の基本的な教えなのです。そして、私を支えてくださっているあらゆる「お陰さま」に気づき、感謝させていただくことが浄土真宗における、お仏事(法事)の大切な意味でもあるのです。 合掌

何色でもできますっていうカメレオンは、真の役者にはなれないんだよねby高倉健

住職的

「4月の標語」解説

何でも器用にこなせる人に憧れたりしますよね。なんで自分にはできないのだろう、自分ももっと華やかな色に輝くことができたらいいのに…と思い悩んだりすることがあります。しかし、誰もが自分にしか出せない色(個性)をもっているはずです。  『仏説阿弥陀経』というお経に、「青色青光 黄色黄光 赤色赤光 白色白光」という言葉があります。これは阿弥陀如来がおられる極楽浄土に咲く蓮華のついて説かれた一説で、「青色の蓮華は青色に輝き、黄色の蓮華は黄色に輝き、赤色の蓮華は…(以下同様)」という意味です。
 もしかすると「青色の花が青色に輝くなんて当たり前じゃないか」と思うかもしれませんが、私たちは当たり前のことを当たり前にみることができない生き方をしています。本来、青色の個性をもった人に対して赤色になるよう求めるために争いが起こり、自身も赤色の個性があるにもかかわらず、白色に輝こうとするから時にツラさや苦しみを感じることがあるのではないでしょうか。仏さまがご覧になっている世界は、私たち1人ひとりが尊いいのちの色を輝かせているというのが、先の『仏説阿弥陀経』の言葉なのです。 タンポポが、チューリップやバラの花を咲かせることは不可能です。タンポポはタンポポ、バラはバラです。しかしタンポポがいのち一杯自分の花を咲かせていることは素晴らしいことで、他の花と何ら遜色はありません。
 「小さきは小さきままに花咲ける 野辺の小草の安けきを見よ」という詩がありますが、たとえ小さくても、太陽の光に照らされ精一杯自分の花を咲かせていることは素晴らしいことです。人に知られようが、知られまいが、何の不平もなく安らぎに満ちています。 月に向かって「何故あなたはそんなにも美しく輝いているのか」と聞くと、きっと月は「私は黒い塊だが、太陽の光によって輝いているんだ」と答えるでしょう。浄土真宗の宗祖・親鸞聖人は、「石・瓦・礫のようなものでも、光に遇うと金のように輝く」と述べられています。
 私たちは自己中心的に生き、他人の目を気にして自分を飾り、比較して思いあがったり、落ちこんだりして虚しい日々を過ごしていますが、仏さまの教えを聞き、阿弥陀さまの光に遇うことで「私が私であって良かった」と、いのちを輝かせて生きることができるのです。 合掌

りっぱすぎる決心は きっと三日坊主に なるから

ドラエモン

住職的

「3月の標語」解説

 仏教には「中道(ちゅうどう)」という教えがあります。これはひとつの物事に対して極端に偏ってはならないという、お釈迦さまが説かれた教えです。快楽の道と禁欲の道…私たちは、時にどうしても突きつめて物事を見たり、考えたりしてしまいます。心地良い暮らしに慣れ親しむと、次から次へと欲が生まれ、深まってゆく。  それじゃあいけないと思い立って、今度は何でもかんでも欲を減らそう、自分を律して、あれもこれも思いつくものはすべて抑えて、ストイックに自分を追い込んでゆく。コロナ前のグルメブームや健康ブームは、まさにそうしたことを象徴していたように思えます。
 お釈迦さまの教えは、快楽をむさぼるだけでもダメ。禁欲して自分を追い詰めるだけでもダメ。快楽と禁欲、この両端を乗り越えてバランス良く、生きてゆかなければ、人間が本来もとめる真理を見る目が養われないと語るのです。
 ある日お釈迦さまは、ソーナという弟子に対してこのような問いかけをしました。
釈「ソーナ。あなたは出家する前、琴を弾くのがとても上手だったらしいですね?」
ソ「その通りです」
釈「琴を弾く時、弦が硬いと良い音は出ますか?」
ソ「いいえ。良い音は出ません」
釈「では、弦が緩いと良い音がなるんですね?」
ソ「いいえ、単に緩くすれば良いというものでもありません」
釈「では、一体どうしたら良い音がなるというんだね?」
ソ「あまり緩めすぎてもいけません。張りすぎてもいけません。強すぎず、弱すぎず、琴と弦の具合を見て、しっかり調整しなければ本当に良い音はでません」
そこでお釈迦さまは、にこりと笑みを浮かべました。
釈「ソーナ、まさしくあなたが今言ったように、精進するのも張りつめすぎると、気持ちが高ぶってしまいます。また反対に、緩みすぎても人を怠惰に貶(おとし)めるのですよ」
その言葉を聞いたソーナも笑みを浮かべて喜び、この琴弦の喩えの教えをしっかりと受けとめました。

 お釈迦さまは「中道」の教えを、琴弦の喩えを通して示されました。高い志を持つことは大切なことですが、無理しすぎると心身が先に疲弊してしまいます。いま自分ができることを無理せず、少しずつ実践していくことが目標への近道かもしれません。 合掌